小杉湯

コクテイル書房 店主

狩野俊

高円寺に存在し続けながら、その場に集う人との関わりの中で少しずつ形を変えてゆく場所。小杉湯だけでなく、この街にはそういった場所がいくつもある。古本酒場「コクテイル書房」もそのひとつだ。2020年末から2021年にかけ、大きな転機を迎えたこの店を追った。

2020年11月29日「『ものづくりっておもしろいや』と初めて感じたんです」





高円寺に店を構えて11年。個性豊かな店が揃うこの街でもひときわ風変わりな古本酒場「コクテイル書房」。築100年近い古民家を改装した店内には、数えきれないほどの本とお酒、年季の入った古道具が並ぶ。「おばあちゃんの家に来たみたい、と本当によく言われますね」と語るのは、店主の狩野俊(かりの すぐる)だ。



「大正コロッケ」に「ヘミングウェイサワー」、「文学カレー『漱石』『太宰』」。文学作品や作家にちなんだ料理やドリンクをメニューに置き、今では文学ファン以外にも広く知られる存在となったコクテイル。2020年末、コロナ禍において大規模な改装に踏み切り、なんと店の一角が「缶詰工場」に生まれ変わるという。

「缶詰工場」とはいったい……?
それを説明するには、2020年2月に発売されたレトルトカレー「文学カレー 漱石」の話が欠かせない。

「文学カレー」はもともと店で出しているメニューのひとつで、お客様からの反響も多いものです。ただ、遠方でなかなかお店に来られず、うちのカレーが食べられない方もいる。そういうお客様の声をはじめて認識したとき、レトルトにして誰にでも食べてもらえるようにしようと思ったんですよね。大阪にある工場にお願いして、構想から1年以上かけてでき上がったのが、レトルトの「文学カレー 漱石」です。

ただ、やっぱり人間が作るのと機械が作るのでは味が違う。大量生産すると、レトルトとしておいしいものはできるんですけど、どうしても店の味とは変わってしまうんです。それならレトルトもお店で作ってしまおうと決めて、店の奥に工場を作ることにしました。



「缶詰工場」と銘打ちつつも、工場スペースではレトルト食品全般を作れるようになるという。「『缶詰』っていう古臭い感じのほうがうちっぽいかなって」と狩野。古本屋で、居酒屋で、缶詰工場。まさに唯一無二の異色の組み合わせだ。

複合したものが好きなんですよね。ものごとは組み合わさったほうがおもしろいと思っていて。「コクテイル」は「カクテル」って意味なんですけど、店のコンセプトでもある“古本とお酒”は、「自分が酒場に行ったときに本を読むな」っていう経験から。そこに缶詰工場が加わるのは「カウンターの奥で缶詰作ってたら風景としておもしろいじゃん」っていう思いつきが最初ですかね。

「人がやらないことをやろう」と思っているわけじゃないんだけど、自分が「これおもしろいな」と思ったことを他の誰もやっていなかったりすると、「さらにおもしろいな」って思います。

店の一角を工場に改装するにあたって、約2週間かけてメインカウンターの位置を変えるなどの工事を行う。一時的にとはいえ店を閉め(しかもコロナ禍である)、これまでとは違う形に生まれ変わる。メディアに取り上げられる機会も多く、長く通うファンも多い店として、変化に踏み切ることに怖さはなかったのだろうか。

僕は自分のことを保守的な人間だと思っているんですけどね。人生の中で、自分から「どうしてもこれをやりたい!」とか思ったこともあんまりなくて。古本もお酒も、そこまで好きなの?って問われると正直自信はない。ただ、工場は心の底からやりたいと思ったんですよね。

「文学カレー 漱石」のレトルトを作るとき、去年の年末かな、デザインの大詰めの作業があって。僕ね、そのときすごい高熱を出してたんですよ。いつもだったら諦めて「もういいや」って投げ出してたと思うんですけど、そのときは体調が悪いなかで「デザインをこうしなきゃ……」とか考えてて。レトルトのやりとりだけは「やらなきゃ」って思ったんですよ。それで、でき上がったものを見たとき、月並みな言葉ですけど本当に感動して、「ものづくりっておもしろいや」ってその時初めて感じたんです。僕が手を動かしてないものづくりですらこんなに楽しいんだから、実際に自分が手を動かしたらすごくおもしろいんじゃないかって。



妻には大反対されましたね。「こんなの絶対売れない」「(レトルトを作っても)あなたが全部食べることになる」って。妻という壁を乗り越えて自分が大きくなる……修行ですね(笑)。でも、それでもやると決めたんです。

2020年12月15日「もともと人間が嫌いだったんです」



2020年12月中旬。お店の再オープンを控え、工事まっただ中のコクテイル。長めの休みをとるのは、実は今年二度目。一度目は2020年4月、新型コロナウィルスの影響で休業を余儀なくされたときだ。しかしそのときと比べて、自身に明らかな変化があると狩野は語る。

コロナの影響で最初の休業が決まって、休みに入る前日に店の掃除をして家に帰った瞬間、「もう二度と店番したくない」って思ったんですよ。本当にすっきりして。そのとき、「自分は本当に人間が嫌いだったんだな」と思った。こんなこと小杉湯さんに載せちゃっていいんですかね(笑)。本当はお酒飲まないと人と話せない性格で、店番も正直いやいややっていて。

飲食店のカウンターに立つ人間でありながら、「店番も人間も嫌い」という矛盾。しかもコクテイルが店を構えるのは、高円寺の商店街のど真ん中だ。濃密な人付き合いを避けて通れないようなこの場所で、狩野はどのように「人間」と向き合ってきたのだろうか。



人間だけじゃなくて、動物とか植物とかも含めて、昔から生きているものにそんなに興味がなかったんですよね。命ってものに対して冷淡(笑)。

若い頃はもっと「人嫌い」だったんじゃないかな。この店に移ってきてから(※コクテイルは国立→高円寺北→高円寺あづま通り→現在 と3度の移転をしている)、少しずつ嫌いの度合いが下がってきたとは思います。

この辺りは高円寺の中でも田舎っぽい感じが残ってて。この場所に来た頃は、子どもを抱っこしながら妻と3人で店番をしてたんですけど、隣の蕎麦屋さんが親戚みたいに子どもを預かってくれてミルクを飲ませてくれたりしたんですよね。他人でもそうした肉親のような人間関係ができるんだなと実感してから、徐々に変化が始まった気がします。ここに来なければ、そもそも「人間が嫌いだ」と気づくこともなかったかもしれない。

高円寺は、風通しのいい田舎。上京者やその2代目3代目が多いという土地柄がその雰囲気を作っているのではないかと狩野は言う。

高円寺ってお店とか商店街とかがフィーチャーされることが多いんですけど、もちろん「生活者の街」でもあって。子どもが小学生になって、学校のつながりで他のお父さんお母さんと関わる中で、大企業に勤めている人、政府機関の人、クリエイターとか、ほんとにいろんな人がいるんだなって。ちょっと踏み込まないと出会えない高円寺の人たちと知り合えたのは、人間に対する考え方に何かしら影響を与えたんじゃないかなと思いますね。

高円寺北中通りで生まれた縁。自らを「人間嫌い」と言う狩野の周りには、それでもたくさんの人が集まる。コクテイルの改装工事も地域のつながりの賜物だ。

工事を担当してくれている人も元はお客さんで、劇場の舞台照明とかをやっている方なんです。コロナで劇場の仕事がなくなって、手伝っていただけることになりました。縁とタイミングですね。

今年二度目の再オープン。内装のリニューアルだけでなく、店主の大きな心境の変化を経て、新しいコクテイルはどのようになっていくのだろう。

不思議と「人が嫌いだ」と自覚してから徐々に好きになってきたというか。コロナの影響で人と会わなくなったのも大きいかもしれません。僕はこれまでも料理を出してきましたけど、料理を上手に作ることって人を好きになることだなと思って。嫌いな人に出すよりは好きな人に出すほうがいいですよね。だから、休業前と比べて、出す料理も僕の中で変わったんじゃないかなと思っています。


2021年4月15日「店にいる時間が『ケの日のハレ』」


二度目、三度目の緊急事態宣言。飲食店への営業自粛要請。さまざまな荒波を超えて、コクテイル書房がふたたび扉を開けたのは4月に入ってからのことだった。

再オープンの数日後。開店直後に訪れると、店内にはすでに先客が数組。そして、店の奥には「缶詰工場」が完成していた。






これまでは工場で作っていた「文学カレー」を、これからはここで作ることになる。お店の味をそのままパウチしたカレー、評判は上々のようだ。カウンターのお客さんからは、「レトルト2つください」「私も買いたいです」と続々注文が入る。



改装をして生まれ変わったコクテイル書房。それでも、店に流れる空気、いわゆる“コクテイルらしさ”は変わらずそのままだ。狩野自身も浮き足立つことなく、淡々と注文をとり、料理を作り、目の前の作業に向き合う。この店にいる時間は、彼にとって“ケ”なのか、それとも“ハレ”なのだろうか。

そうですね、僕にとっては店にいる時間が「ケの日のハレ」なんじゃないでしょうか。

カウンターでお酒を作りながら、静かに答える。店内で料理やおしゃべりを楽しむ人びともまた、「ケの日のハレ」を求めてここを訪れているように見える。平熱のまま、日常に少しだけ彩りを添えてくれる場所。家に帰るまでのあいだ、一日を振り返ってほっと一息つける場所。その空気を作るのは、手をかけて守られてきた古民家に本、古家具、そしてカウンターに立つ狩野の存在なのだろう。



大きな変化と共にあった半年間を経て、コクテイルはまた新しい時間を重ねていく。
そしてこれからも、店を訪れる人それぞれの“ケの日のハレ”の時間が積み重ねられていくのだ。

取材・文:べっくやちひろ
写真:藤原慶

<あとがき>


お店を訪れてから数週間後。仕上げたインタビュー原稿を狩野さんに送ると、翌朝こんなお返事が返ってきました。

「たしかに私は『店番はケの日のハレ』だと話しました。ただ、実はあれからいろいろ考えていて。『ケの日のハレ』はないほうが幸せなのかなと今は思っています」

「ケの日のハレ」はないほうが幸せ、というのはどういうことだろう。読み進めると、続きにはこう書かれていました。

「たとえば、子どもと接しているときや妻の食事を口にするとき、私は幸せを感じます。私にとってこれは『ケ』です。ケが幸せになることで、ここ数年の私は生きていて楽で楽しいです。

ここまで書いて思いましたが、店番は『ケ』ではないですね。『ケもハレも意識しないのが幸せ』なのかなと思いますが、やっぱり店番はまだ『ケの日のハレ』かもしれません。この先、店番も『ケ』になればいいなと思っています」

そのお返事を最後まで読んで、少しほっとしました。たしかに「店にいる時間が『ケの日のハレ』です」というのは一本の記事としてはとてもきれいなまとまり方で、それゆえに「こちらが望む答えを返してくれたのかもしれない」とずっと気になっていたからです。

お店に立つ時間が「ケ」になる瞬間。それはいつ、どんなふうに訪れるのだろう。今度はそれが気になってきました。そのときが来たらまた、狩野さんにお話を聞いてみたいなと思います。