アートディレクター / デザイナー
菅谷真央
グラフィックデザイナー・菅谷真央。自営業の両親を見て育ち、小学生からデザインの世界を志す。美大在学中にキャリアの一歩を踏み出し、がむしゃらにクリエイティブに向き合い続けた彼が、ひとつのプロジェクトを経てたどりついた哲学。そしてこれからの生き方のこと。
アートディレクター / デザイナー
グラフィックデザイナー・菅谷真央。自営業の両親を見て育ち、小学生からデザインの世界を志す。美大在学中にキャリアの一歩を踏み出し、がむしゃらにクリエイティブに向き合い続けた彼が、ひとつのプロジェクトを経てたどりついた哲学。そしてこれからの生き方のこと。
現在グラフィックデザイナーとしてさまざまなプロジェクトを手がける菅谷。デザイナーという職業を意識し始めたのは、小学6年生という早いタイミングだった。
単純に、絵を描いたり物をつくるのが好きだったんです。自己表現というよりは、純粋に何かをつくることで人が喜んでくれるのが嬉しくて。自分の創作活動の結果誰かが喜ぶという順番ではなく、最初から周りを喜ばせたくて創作活動をしていましたね。その頃たまたまデザイナーという職業を知って、かっこいいなとぼんやり思っていました。
本格的にデザイナーを目指し始めたのは、高校に入学したころ。将来の話が出てくるタイミングで美大という存在を知った。小学生時代と変わらず、クラスでポスターなどの制作物をつくり友人に喜ばれることが創作のモチベーションとなっていた菅谷。その道に進みたいと自然に心は決まった。それからは、デザイナーになるための勉強に打ち込むことになる。
友人には「真央は進路を決めるのが早かったよね」と言われたりしたのですが、実家も自営業なのでスーツを着て会社員として働いているイメージは最初からまったく湧かなくて。両親は自営業の大変さを知っているので反対していましたが……。それからは美大に入るための勉強だけしていました。
晴れて第一志望の美大に合格。個性豊かな学生たちの中では「何をしても変な風に見られない」。美大の開放感からしばらく遊んでいた時期もあったが、3年生になったとき、デザイナーとしてのキャリアを踏み出すチャンスをつかんだ。
親の反対を押し切って自分で奨学金借りて入学したこともあって、「絶対デザインで食っていくぞ」というモチベーションが強くて。大学3年生のときに先輩たちとデザイン・映像の事務所を立ち上げました。大学の頃は、世間の相場を知らないこともあり、仕事を受けても本当に安い金額で。世間一般に見たデザインの価値ってすごい低いんだなと思ったり、なめられないように成果にこだわろうという意識も芽生えたりしてました。
就活はせず、卒業後も自身の立ち上げた会社で1年ほど働いた。仕事はできるようになってきたが、自分のやりたいことが少しずつはっきりする中で会社とのズレも見えてきた。
卒業して1年経った頃、先輩たちと始めた会社は少しずつ映像制作がメインになってきていました。でも自分は今も生業にしているグラフィックデザインが好き。学生の頃から知り合いだった制作会社の社長さんにそんな悩みを相談したところ、会社で新しい事業を立ち上げるから一緒にやらないか?と声をかけてもらって。それまで自分たちだけでがむしゃらにやってきたので、世の中一般のスキルやノウハウを学びたいというモチベーションもあって、転職をしました。
転職してからしばらくは、朝日が出るまで働くような、本当にハードな働き方をしていました。デザインって答えがないから、いくらでもできるんですよね。ずっと迷って、出してはボツになり、もう一回出してはまたボツになり……。
使命感というようなかっこいい理由ではなくて、自分はデザインしかできないのに、デザインできなくなったらやばいと。だから無我夢中で頑張って、結果的にすごく力がついたのもこの時期でした。おかげで今の自分がありますが、体調や気持ちがギリギリのところまできていましたね。
想像以上にハードな仕事に、不調が続くようになった。そんなとき、ふとある考えが頭に浮かんだ。
アイデアが出なくて行き詰まっていたときに、ふと「大きなお風呂入りたいなあ」と思って。当時、銭湯に行くという習慣はなくて、温泉とか地元のスーパー銭湯にしか行ったことがなかった。仕事で疲れてぼんやりしながら、近所のお風呂を検索していました。
高円寺にある自宅近くの銭湯を探し、見つけたのが小杉湯だった。
ただ「家から近かったから」という理由ですけど、行ってみたら、すごいよかった。入ったから何かアイデアが出るわけじゃもちろんないんだけど、逆に何も考えない時間ができたというか。いろいろリセットできたというか。結果的にその後いいアイデアが出てきたりして、自然と通うようになりました。
ハードな仕事の合間に小杉湯へ行き、なんとか体力と気力をつないだ。その後制作会社を離れ、デザインの力でより多くの人にインパクトを与えられる環境を求めて人材系スタートアップへグラフィックデザイナーとしてジョイン。プライベートでも様々なプロジェクトに関わるようになり、順調にデザイナーとしてのキャリアを積み重ねていった。銭湯通いもすっかり定着。通い始めて1年ほど経った頃、小杉湯で見つけたある貼り紙に興味を引かれた。
ある日小杉湯に「デザインできる人募集」の張り紙が貼ってあって。「銭湯でデザイン?」と興味が湧いて、初めて番台で佑介さん(小杉湯三代目)と話しました。
誘われるままに当時小杉湯のとなりにあったアパートの101号室に行ったら、いろんな人が集まって打ち合わせをしていて。打ち合わせと言っても、日常の延長線上でおしゃべりをしているような気軽な感じだったんですけど。メンバーのひとりが入ってくるなり「彼女に振られた!」って言ってたりとか(笑)。
その場で話し合われていたのは、銭湯ぐらしプロジェクトのロゴデザインについて。当時小杉湯のとなりにあったアパートを拠点として、銭湯・小杉湯が好きなメンバーが集まり、自分たちのやりたいことを持ち寄る構想が始まっていた。
でもデザイナーがその場にいるわけじゃないからロゴもなかなか決まらなくて。最初は意見を言ったりしてたんですけど、「俺作りますよ」って自然と言ってて。数週間後にロゴを持ち込みました。
結果的に菅谷の持ち込んだ案が採用され、株式会社銭湯ぐらしのロゴが完成した。引き受けた理由を彼はこう語る。
単純に小杉湯が好きになっていたものあるし、本当に辛い時期を助けてもらったから恩返ししたいと思ったのもあるし、こういう利害関係のない人たちと新しく出会うって、なかなか今の世の中でないなと思って。それを無駄にしちゃうのはやだな、と思ったんだと思います。
結果的に「真央がいなかったらロゴ決まってなかったね」と言ってもらえたりして、小杉湯のみんなの中での自分の役割みたいなものが少しずつできてきた気がします。
少しずつ銭湯ぐらしに関わるようになり、メンバーともすっかり仲良くなってしばらく経ったある日。「小杉湯を株式会社化するから、CIをつくってほしい」と声をかけられたことをきっかけに、小杉湯のCIづくりに取り組むことになる。
CIとは、コーポレートアイデンティティの略。企業の個性を統一されたイメージにまとめ、デザインやメッセージで発信して周知していくことを指すものだ。
CIは会社の顔のような存在。顔なので肩書きなどが書いてある必要はないけど、対外的には覚えてもらえることが大事だし、対内的には、愛着が湧くような旗印となることが大事だと思っています。その顔を覚えてもらった後に、向き合うべき対象とコミュニケーションをとるわけですが、どんなコミュニケーションをとっていくかがいわゆるブランディングです。株式会社小杉湯のブランディングの起点にもなるCIを任せてもらうというのは、とても嬉しかったですね。
普段から企業のブランディングやアイデンティティ形成を手がけることも多い菅谷。核となるメッセージを引き出すにあたって、いつもクライアントに尋ねることがある。
いつも最初にやるのは、「一番大事にしてることってなんですか?」と聞くこと。小杉湯でもそれは変わらず、佑介さんにその質問をするところから始めました。
「掃除を丁寧にすること」「閉鎖的にしないこと」とか、いくつか答えが出てきて、それをさらに「なんで掃除するのか」「なんで閉鎖的にしないのか」とヒアリングを何回か繰り返して突き詰めていく。最終的には、「小杉湯をずっと続けることかな」という結論になりました。小杉湯は今まで100年弱続いてきて、これからも続けていきたい。今回作るCIも、次の100年使えるCIにしたいと。
続けるって、実はめちゃめちゃ高い目標だと思うんです。しかもそれが100年という長い単位。今まで取り組んだことのない時間軸に圧倒されながら、「じゃあそれで作ってみます」と引き受けました。
菅谷が最初に提案したロゴデザイン。「小杉湯」という文字をシンプルに記号化した3本ラインをビジュアルとして組み、さらに商売の基本である「売り手」「買い手」「社会」の“三方よし”という考え方を掛け合わせた。小杉湯にとっての“三方よし”は「小杉湯」「お客さん」「街(高円寺)」。それが交差し、その流れがひとつになる場所をデザインに落とし込んだ。
ビジュアルの方向性はすぐに定まったが、難航したのは「誰に向けたCIなのか」、つまり「小杉湯のお客さんは誰なのか」を定めることだった。ロゴやデザインにはスマートさやキャッチーさも必要だが、先鋭的すぎるデザインは来る人を限定してしまうことにつながる。たとえば「若い人が集まる銭湯」という見え方になれば、長く通っている地元の人々が来づらくなってしまう。
小杉湯は本当に多様な人が集う場所なので。「誰に向けたCIなのか」という話がなかなかまとまりませんでした。
長い話し合いの中でたどり着いたのは、「小杉湯はいろんな人を受け入れる“環境”でしかないのでは?」ということ。小杉湯はさまざまな人と向き合い受け入れる“環境”、小杉湯を経営する「株式会社小杉湯」は小杉湯と向き合う存在……というように人格が分離してきました。
なので、小杉湯はあくまで“環境”に徹するために、固有の人格を持たせないようにロゴは出さないようにしよう、という結論になりました。だから僕がデザインしたロゴマークは株式会社小杉湯のもので、小杉湯自体にはロゴがない。株式会社小杉湯という人格が、環境である小杉湯を磨き続けるという関係性が明確になったんです。
それは、「掃除を丁寧にすること」「閉鎖的にしないこと」など、佑介さんが大切にしていることともつながっていて。全員がすとんとふに落ちたというか。自分たちが何者として小杉湯に向き合うのかが明確になりました。
長い話し合いを経て、株式会社小杉湯のロゴは完成した。全員が「これしかない」と納得するデザインだった。
案を3つくらい出して「どれがいいですか?」って決めてもらうやり方は好きじゃないんです。正直に言って、解がいくつもあるわけない。やっぱりデザインのことを一番考えてるのはデザイナーなんで、最後はデザイナーが決めるべきと思っていて。全力でコミュニケーションをとって、全力で考えて。「これが最高のひとつです」と出したい。
デザイナーとして働く中で生まれた哲学。小杉湯のCI作りを経て、それが間違っていないことの裏付けがとれたと菅谷は話す。
デザインは任せた!と言ってもらえる状況で仕事していきたいなと改めて思いました。小杉湯のCIを決めていく中で特殊だったのは、佑介さんから「最終的には真央が決めていいよ、任せるよ」と言われて、決定権をこっちが握るということ。それは他の仕事ではめったにないことです。徹底的に周りの意見を尊重する姿勢にまずは驚かされました。佑介さん自体が、まさに「環境」のような、実に小杉湯的な人だと感じました。
小杉湯にいろんな人が集まるのは、「(小杉湯の)周りの人がいいならいいよ」という考え方の賜物だと思っています。意志がないのではなくて、それが佑介さんの意志。こういうターゲットにきて欲しい!とアプローチするのではなく、ひたすらシンプルに、清潔な場という機能を磨き続けている。
半年以上におよぶ小杉湯のCIプロジェクトは、自分のやりたいことが浮かび上がってきたり、その後の自分の仕事観が大きく変わるきっかけにもなったという。
「自分より長生きするクリエイティブをつくりたい」とはっきり思うようになりました。自分は100年後はもう生きてないと思うんですけど、デザインなら生き続けられるなって。
ずっと命かけてデザインをやってきたから、「長く使えるものになったらいいな」とは前から思っていた。ものすごいエネルギーをかけてつくったものが雑に使われるとか、なくなっちゃうとか、やっぱり悲しいんですよ。言語化してないだけで、どんなクリエイターもみんな思ってるんじゃないかな。
「100年続ける」という時間軸の長さに触れ続けたことで、自分の死後のことにまで考えが及ぶようになった。長く残るものに関わりたい、長く残るものをつくっていきたい。そう考えるようになったきっかけをくれた小杉湯という存在は、これからの菅谷にとっても大切なものになった。
多くの仕事は、自分が在任できる間のことだけ考えていればいいですよね。小杉湯ではその真逆の仕事ができて、本当に人生のひとつの転換点だったなと思います。
小杉湯のCI作りに携わってから、新しい仕事を受けるとき、相手はどのくらいのスパンで考えてるのかな、という視点が入るようになった。「これ、どれくらい続けようと思ってますか?」と最初に聞くようになりましたし、続ける意志がなさそうな仕事であれば断るようにもなりました。「続ける」ことを重視する姿勢は、佑介さんの考え方とか、小杉湯のロゴに向き合うことでかなり影響を受けました。
「これからも小杉湯が続いていくこと、それをデザイナーとして、常連として支えていきたい」。そう語る菅谷。銭湯との出会い、そしてひとつのプロジェクトを経て、また次の段階へ--。クリエイティビティの追求は、これからも続いていく。
取材・文:安藤菜々子
写真:田野英知
編集:べっくやちひろ